錦山神祠改建紀】

この碑には、明治七年に城内遷宮した錦山神社の由来、そして、清正公の生涯と清正公が神として祀られるようになった由来、そして京町へと遷宮することとなった背景が記されています。明治八年、当時の権令 安岡良亮氏が、江戸末期の儒学者 安井衡氏に頼り内容を漢碑として大成させ、幕末の書家 成瀬 温氏の書法によって研鑽されたものです。

この世の中には、きわめて大きくきわめて強い気が充満していて、何事もこれを押し曲げることが出来ない。
長い年月を経て、しかもますます勢いが衰えないものは、ただ忠正の気であろうか。忠正の気が充満して物に触れるとそれは山よりも高くなり、川や海よりも深いものとなる。全ての人々は、これを神や霊として、畏れたり、敬ったりするが、それがどういうものであるのか分からない。ああ、勢いがあることよ。世の中は互いに争って以来、名将英士が多く輩出した。そして、この徳に該当する者には、中国に関羽がいてわが国に清正公がいる。清正公は武名を海外にまで広げ、その勢いは泣く子もだまる程であった。誠に一代の英雄である
しかしながらこのことは、まだ清正公の道とするものではなかった。
慶長の時、徳川家康の勢いは、まるで虎が山のふところを背にして見構えているかのようで、誰もこれに関わろうとはしなかった。
そして、清正公は豊臣秀頼公を助け、家康と京都で会見し、おそれる事なく、いかる事なく、事穏やかにすみ、ついに徳川家と豊臣家との交わりを結んで帰った。そのうちに、匕首を懐から取り出して言った。今日の事で、わずかながらでも、秀吉公から受けた恩恵に報いることができたと。
思うに清正公は至剛の徳を使い、これを柔軟に働かせた。そういうことから、勇者はあえて怒らない。知者はみだりに策謀をめぐらさない。広い心をもって、すべてのものに対処した。ああ、清正公を死なせなかったならば、よこしまな人たちが(清正公を恐れて)勝手なことをすることもなく、そして、またうまく広く工作して、清正公が死んだとしても、豊臣政権はまだ滅びることはなかったはずだ。ところが天は清正公を死なせた。ああ、なんとも惜しいことか。
かの関羽は蜀に仕え、戦に一回負けて捕虜となった。そのことは言うまでもない。それでも後世、関羽を尊んで関帝と称した。

ひとえに忠正の気は、死んでも消えることのないものであるからだろうか。いうまでもなく、清正公の徳が成し遂げたのは、このようなことである。当然のことではあるが、人々は清正公を永久にお祀りして益々これを尊ぶのであろう。
最初、神社は本妙寺にあった。僧侶がこれを奉った。明治四年、藩を廃止して、熊本県となった。知事細川護久公が言われるには、神仏混淆は(明治)政府の意思ではないと。祠を城の中(熊本城)に移した。数十家の商人が移住した。
お参りする人は、昼夜となく集まった。この年の冬に鎮台が熊本城におかれた。
陸軍省が論議していうには、軍容は厳粛であることを尊重する。
今、兵家と商人が入り交じっているのは、国威を損なうことになる。すなわち命令して商人を城外に出した。
すべて、錦山神社にお参りする者は、月に二日だけ城に入ることが許され、その他の日は、お参りすることが出来なかった。人々は満足しなかった。
すなわちまた、祠を城外に移そうとすることを協議したが、長い間実行されなかった。
六年の冬、安岡良亮が白川権令になった。これを聞いて言うには、神と人が和合しないのは国の福ではない。そのうえ清正公のように功徳のある人を祀る神社の場所が決められない。
この様なことではどうして人を教え導くことができようかと。
あくる年の冬、県の事業が開始された。そこで神社の土地を城の北に占って定めた。
神社は、東南の方角に向かって立ち、遠くは阿蘇山を望み、近くには江津湖があり、趣が非常にいい場所であった。
命令が下った日、官吏と庶民は、喜びいさんで労働を助けた。規模が大きく、朱色の鮮やかな柱の美しさで、日数をかけず出来上がった。
また、神社の周りには、春の花の咲く木を植えて、男女の遊ぶ所とし、清正公を景慕する気持ちを表した。
それによって、清正公の徳が益々顕れるようになった。
八年七月安岡権令は、仕事で東京に来た。人を介して、私(安井)に錦山神社を再建したことを記録してほしいと頼んだ。
私は老衰して官職を辞めた者であるので断った。安岡権令が言うには、「私が先生に依頼する理由は、文章が熟練しているからです。」
私は「その文は、他人に任せて作らせなさい。」と言った。安岡権令は「先生の名を借りることによって、皆の望みをかなえましょう。」
私(安井)はその真心を褒め、再び辞退せず、謹んでその事を編集して、権令の御厚意に答えた
安岡権令は姓は、安岡、名は、良亮、土佐の人である。私は、安岡権令とは面識がなく、その賢否も知らなかった。
しかし、今日の権令は、仕事が多く、任務が重い。その名は権令といっても忙しさは国守より多い。
そうして、速かに錦山神社の再建の事業を行い、熊本の人に、そのふみ行う道を教えた。すなわち、政治を行う者は心がけるべきことである。